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(株)三井物産戦略研究所所長 寺島実郎 氏

2002年5月9日 第154回国会 衆議院憲法調査会
                    国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会議事録抜粋

[1]会議録抜粋


[1] 会議録抜粋

寺島参考人 寺島でございます。

 きょうは、この大切な調査会にこういう形でもって発言の機会を許していただいて、ありがとうございます。

 私の立場を一言で申し上げますと、私、九七年からさかのぼる十年間、アメリカの東海岸で、前半の四年がニューヨーク、後半の六年がワシントンで仕事をして帰ってまいりました。その前、国にも相当御迷惑をおかけした、三井グループが中東のイランでIJPCという大変大きな石油化学のプロジェクトを試みまして、イラン・イラク戦争、さらにその前にはイラン革命という、戦争と革命という二つの大きな障壁にぶつかって、結局、全面的にこのプロジェクトから撤退するという経験をしたわけですけれども、その際、IJPC関連の情報活動で世界じゅうの中東問題の専門家を訪ね歩き、シンクタンク等を動き回っていた時期がございます。

 したがいまして、私の議論というのは、外から日本を見る機会が非常に多いということから議論を組み立てていると御理解いただければわかりやすいかなというふうに思います。

 まず、冒頭の話としまして、私、「一九〇〇年への旅」という日本の二十世紀を総括する連載を新潮社の国際情報誌でずっと続けてきていまして、日本の二十世紀とは一体何だったのかということをずっと追いかけてきております。そういう中で、国際社会における日本のあり方ということがテーマですので、日本の二十世紀の国際関係とは一体何だったのかということを、日本外交の二十世紀と言いかえてもいいかと思うんですけれども、ざっくりとキーワードで言うと、アングロ・サクソン同盟というのが日本の二十世紀の外交を特色づけるキーワードだと思っています。

 どういう意味かというと、百年のうち実に四分の三、七十五年間、アングロ・サクソンの国との二国間同盟で生き延びたアジアの国という自画像を日本は持っている。前半の二十年、一九〇二年から一九二一年のワシントン会議で解消するまで、御承知のように、この国は、日英同盟という英国との同盟によって、これはユーラシア外交の成功体験という言い方がありますけれども、日露戦争から第一次世界大戦まで、いわゆる勝ち組として極東の小国からすい星のように大国の一翼を占める国にのし上がった時期がございます。

 日英同盟の時代が前半の二十年、間に二十五年、戦争を挟んだ非常に不幸な時期があって、その後、一九四五年から御承知のように五十五年間、新手のアングロ・サクソンと言ってもいいんですけれども、米国というアングロ・サクソンの国との二国間同盟で今日まで進んできた。

 しかも、その日米同盟も、復興から成長へという一種の成功体験というイメージと結びついていますので、多くの日本人にとって、アングロ・サクソン同盟を持っていた時代は、日本は成功体験をしたという認識がかなりの程度共通の認識として埋め込まれているといいますか、特に間に挟まった二十五年が戦争を挟んだ不幸な時期であったため、アングロ・サクソン同盟こそこの国の安定軸だという一種の基本的な考え方みたいなものができ上がっているというのが、多分この国の二十世紀の外交の、ほかのアジアの国には全くない特色だろうと私は思います。

 したがって、後でその議論になるわけですけれども、この国のこれからの国際関係について議論すれば、ここから二つに議論が分かれます。歴史の教訓としてのアングロ・サクソン同盟を大事にしていくべきだという議論と、そこから新しい発想でパラダイムを変えていくべきだという考え方とが必ず出てきます。そこで今、我々が何を考えなければいけないのかということをお話ししたいというのがきょうの僕の最大のポイントでございます。

 ちょうどことしが、日米安保が発効して、締結されてからは五十一年なんですけれども、発効して五十年の年です。日中国交回復三十周年の年です。非常に記念すべき年なんです
ね。問題は、日中国交回復三十年、日米安保発効五十年のこの谷間に挟まっている二十年についての認識というのが非常に重要だろうと僕は思います。

 この二十年の間というのは何を意味しているかというと、一九四九年に中国に共産中国が成立して、毛沢東の中国ができた。アメリカのワシントンで、戦前から戦中戦後と、いわゆるチャイナ・ロビーという言葉があるんですけれども、中国を支援して、反日親中国の論陣あるいは活動を展開していた一群のグループがあるんです。例えば、ヘンリー・ルースなんというタイム・ワーナーの創始者なんかがその中心にいた人物です。

 彼は、たまたま山東省で長老派プロテスタント教会の宣教師の子供として中国に生まれて、みずから育てたタイムとかライフとかフォーチュンなんという雑誌を駆使して、戦前のアメリカの世論を、自分が生まれ育った中国にひたひたと攻め寄せていく日本を、中国を支援して排斥しなきゃいけないという考え方で一大キャンペーンを張って、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げたりしたんですね。

 要するに、真珠湾に向けて米国の世論を反日親中国に変えた男と言われていますけれども、例えば、そのヘンリー・ルースのような男に代表されるチャイナ・ロビーの人たちが、今まで自分たちが支援してきた蒋介石が敗れて台湾に追い詰められたことに衝撃を受けて、ちょうどバイメタルがひっくり返るように、日本を西側陣営の一翼に取り込んで、戦後復興させて、反共のとりでにしていかなきゃいけないという考え方がすっと浮かび上がったんですね。

 翌年、御承知の朝鮮動乱。それが一九五一年のサンフランシスコ講和会議につながっていくという意味は、当時ダレスとヘンリー・ルースの間に行き交っていた書簡なんかを、私「ふたつのフォーチュン」という本をそのことについて出しているんですけれども、分析してみるとよくわかりますが、要するに、一群のチャイナ・ロビーの人たちが、大陸の中国を封じ込めるために、日本を西側陣営に取り込んでいこうというシナリオがすっと浮上してきた。

 したがって、こう説明すれば一番わかりやすいんです。

 敗戦後、わずか六年で日本が国際社会に復帰できた最大の理由は何だということなんです。イラクが湾岸戦争に敗れて十年以上たっていますけれども、国際社会に復帰するというのは容易じゃないです。まるでモーゼの十戒の海が割れるように、日本にとっては僥幸にも近いタイミングで中国が二つに割れた。そのことによって今申し上げたようなシナリオが浮上してきた。それが五一年、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約というシナリオの下地になった。

 さらに、こういう言い方をすると一番意思が伝わるかと思うんですけれども、もし戦後の中国を蒋介石がしっかり掌握し続けていたとしたら、日本の戦後復興は三十年おくれただろうと言われています。なぜならば、アメリカのアジアに対する投資も支援もすべて中国に向かって、戦後のアジアは戦勝国の中国とアメリカによって仕切られていった、日本の戦後復興の余地はかなりおくれただろうというふうに、これはもう一つの常識みたいな話です。つまり、間隙をつくように日本の戦後復興の可能性というシナリオが浮かび上がってきた。

 松本重治さんという有名な国際問題の研究者がおられましたけれども、戦前、一九三〇年代の上海でジャーナリストとして活動して、六本木の国際文化会館なんかをつくった人ですけれども、彼はなぞ解きのような言葉を実は残していまして、後進に対する教訓ということで、日米関係は米中関係だという言葉をくどいほど言い残しているんですね。それは何を意味しているかというと、日米という関係は二国間関係で完結しない、中国という要素が絡みついているということを言いたかったんですね、彼は。

 事実、そうなんです。この過去百年間の日米中の関係史を分析すると浮かび上がってくることですけれども、日米関係の谷間には常に中国という要素が絡みついている。ところが、戦後の日本人は、幸いなことと言えると思うんですけれども、このことを忘れていられた。

 なぜならば、今申し上げたように、中国が二つに割れて、アメリカの対アジア政策が二十年間の空白期間に入ったわけですね。御承知のように、アメリカが本土の中国を承認したのは、一九七二年のニクソン訪中というのがあったわけですけれども、要するに、二十年、対中政策がブラックボックスの中に入った、チャイナ・ロビーの中でも台湾派という人たちが物すごく影響力があったから。先ほど申し上げたヘンリー・ルースは一九六七年に死んでいるんですけれども、ヘンリー・ルースが死ぬまでアメリカは中国が承認できなかったという表現があるぐらい、つまり六〇年代末まで引っ張られたわけですね。

 香港問題を抱えている英国は、一九四九年の共産中国の成立と同時に本土の中国を承認しています。アメリカが二十年おくれたんですね。アジア政策が二十年空白の期間に入ったという表現をする人もいます。

 その間隙をつく形で、まさにすい星のごとく、復興、成長という、つまり、アメリカの支援とアジア戦略の中心としての日本という位置づけを受けて、戦後復興、高度成長というシナリオの中に七〇年代まですっと入っていけた。これはまあ僥幸にも近い風だったということですね。

 しかし、今、アメリカのアジア政策の基軸が根底のところで変わっている。それはどういう意味かというと、中国という要素の新たなる展開といいますか、要するに、表層観察していると、政権がかわるごとに米国の対中政策は揺れ動いているように見えますけれども、根底のところで、二十一世紀の経済大国、二十一世紀の軍事大国になりつつある中国に対するビジネス面からの期待という意味と脅威という意味の二重の意味で、アメリカの中国に対する関心はいやが上にも高まっている。

 したがって、アメリカの東アジア外交の基本性格が、日本がバイパスされて米中同盟ができるなんという、そんな単純な話じゃなくて、日本も大事だけれども中国も大事という相対的なゲームに変わりつつあるということは間違いない。

 ついこの間、胡錦濤の訪米というのもあったわけです。ブッシュ政権設立直後は、中国に対して、前クリントン政権が使っていた戦略的パートナーという言葉を引っ込めて、中国は戦略的コンペティターだというふうに言っていたわけですけれども、この間、日本、韓国、中国を訪れたブッシュ大統領及びパウエル国務長官は、中国に対して戦略的コンペティターという言葉を今後使わないということを言い始めて、御承知のように、次の国家主席だと言われている胡錦濤の訪米を歓迎するというシナリオに、政権発足当初の対中こわもて外交といいますか、ハードライナー的な対応というものがすっと変わってきています。

 したがいまして、そういう短期間の表層的な変化に対する観察だけじゃなくて、長期構造的に、二十一世紀の半ばに向けて、アメリカのアジア政策が、今私が申し上げているように、日本も中国も大事というゲームの中に収れんしていくであろうということは十分に想定しておかなきゃいけない。

 つまり、私が言いたいのは、戦後のこの半世紀というのは、特に米国の対中政策が空白期に入った二十年間というものの余韻を引きずって、アメリカのアジア外交の基軸が日本であり続けるという、ウイッシュフルシンキングという言葉があるんですけれども、期待感みたいなもので成り立ってきた。ところが、構造的にその期待が持ち得ない状況に入ってきているということを、日本人として我々は腹にくくっておく必要がある。

 しかも、悩ましいのは、アメリカという国も、多民族国家を束ねるために、理念の共和国という言い方がありますけれども、理念性を強く打ち出してきて、これが、御承知のように、政治的には民主主義というキーワード、経済的には世界の市場化といいますか、競争主義というキーワードで、世界じゅうをその価値のもとに引っ張っていかなきゃいけないという考え方。中国の方も、自分の国が発信している価値に非常にこだわるといいますか、世に中華思想という言葉があるぐらい、世界の文明、文化の中心は中国だと思っているような、この二つのある種の自国利害中心的な大国に挟まれて、日本が二十一世紀のかじ取りをしていかなきゃいけなくなるということは間違いない。

 そこで、私が申し上げたいポイントに入っていくわけですけれども、誤解していただきたくないのは、私は反米でも嫌米でもなく、自分では、私ぐらい親米派はないといいますか、アメリカに十何年世話になってきて、アメリカの社会システムの持っている多様性だとか、経済の活力を生み出している源泉だとかということについてはだれよりも評価している立場だと思っています。むしろ親米派がこそ、今まで戦後五十年、日米安保がこの国の安定軸を確立する上で大きな役割を果たしてきてくれたということを一定の評価をする立場の人間こそ、この先五十年どうしていったらいいかということについて、ある固定観念から脱却して、アメリカとの関係を冷静に再設計しなければいけない時点に差しかかっているんではないかということを申し上げたいわけです。

 私、国際関係の中でいろいろな人と議論してきて、特にOECDでも、最近、欧州の外交官等と話をする機会が多いものですから余計それを実感している部分もあるんですが、よく私が書いたものでも言っているんですけれども、二つの常識ということ。この国の国際関係のあり方を今後考える上での二つの常識ということを盛んに申し上げているわけです。

 それは、視野の狭い意味でのナショナリズムということで申し上げているんではなくて、グローバルなコモンセンスとして、国際社会の常識として、二つの常識ということに立ち返らなきゃいけないところに差しかかっているんではないか。

 まず第一の常識は、一つの独立国に外国の軍隊が長期にわたって駐留し続けているということは異様なことだという常識です。そんなことないよと言う人も世の中にはいます。ドイツにだって、あるいは世界じゅうにアメリカの軍事基地ぐらいあるじゃないか、日本だけじゃないじゃないかという議論があります。しかし、じっくり情報を集積すればわかることですけれども、例えばドイツは、九三年に米国の在ドイツ基地の地位協定というものを改定して、ドイツの主権を大きく回復するところにまで踏み込んでいます。

 つまり、日本における米軍基地のステータスを、反米でも何でもなく、冷静に分析すればわかることですけれども、ほとんど占領軍の基地のまま、一九六〇年の、四十年以上前の安保のステータスのまま今日現在も、冷戦が終わってもう十年たっていますけれども存在し続けているということになっています。

 最近、よく北京に行くんです。それから、サハリン・プロジェクトをやっていますからロシア関係の人ともよく議論をします。中国、ロシア、本音の部分で、日本をアメリカ周辺国だと思っています。ブレジンスキーが、最近の本でも、日本のことをプロテクトレートと呼んでいます。プロテクトレートというのは保護領という意味ですね、日本人の自尊心を甚だ傷つけるものですけれども。

 したがいまして、私が今申し上げたいのは、国際社会から見た日本は、国家としての問題意識において、今申し上げた第一の常識という意味において、過去五十年、冷戦の時代に日本を安定させる軸として日米安保が機能したということを評価する立場の人間でも、この先五十年、この国に例えば四万五千人、一千万坪の米軍基地が今のままあり続けても全く平気だとにやにやしているような国が、国際社会の中で大人の役割が期待されるだろうか、こういう意味での常識です。

 それから二つ目の常識ですけれども、米国はみずからの世界戦略とその時点での国民世論の枠組みの中でしか日本を守らないという常識です。

 というのは、きょう机の上にお配りいただいている委員会の関係法規集に日米安保条約が出ています。日米安保条約を読めばだれもが当たり前のことだということに気づくはずです。米国はみずからの世界戦略の枠組みとその時点での国民世論の枠の中でしか日本を守らないという意味はどういう意味かというと、日本人の多くは、日本を取り巻く有事なるものが起こったときに、いつでも駆けつけてくれる善意の足長おじさんのように日米安保というものを期待している節があるわけですけれども、そんなものじゃないということですね、基本的に。

 例えば、一番わかりやすい例が一つだけ浮かび上がってくるわけです。尖閣列島問題というものです。例えば、尖閣を中国がある日突然武力を行使して占拠したとすると、日本人の感覚からすれば、それはすぐさま日本のためにアメリカがみずからの国の青年の血を流してまで戦ってくれるんだろうというふうに日米安保を理解している人がいるかもしれませんけれども、これはアメリカの中にでもさまざまな意見が入り乱れています。

 国務省のアジア関係の人たちは、日中間の領土問題に巻き込まれたくないという意思を隠そうとしない。表面的には、いや、そのときはアメリカは動きますよという説明をする人もいますけれども。ところが、日本の立場からいえば、沖縄が一九七二年に返ってくる瞬間まで、尖閣というのはアメリカが施政権を持っていた領域で、あれはどちらの国の領土だかわからないんだよねというスタンスはあるはずがないロジックなんですね。にもかかわらず、アメリカは、先ほど申し上げたように、中国に息をのむように配慮しながら、できればこの問題には巻き込まれたくないという本音を隠そうとしない。

 したがって、私が申し上げたいのは、今後、朝鮮半島の統一だとか、いろいろな我々が今予測もできないような事態が展開されていく中で、日米安保さえあればこの国の二十一世紀の安定も確保されるという考え方は、簡単にはとれないということなんですね。

 この二つの常識ということをよく今考える必要がある。

 私が申し上げたいのは、対米関係の再設計という話なわけですけれども、僕はいかなる国家、民族にもナショナリズムというのがあって当然だと思っていますが、このナショナリズムというものをかなりねじれた形で封印してきたのが日本の戦後だと思うんです。

 健全なナショナリズムというものがあるとすれば、今我々がこの国のことを思って考えなきゃいけないのは、開かれたナショナリズムというものですね。つまり、近隣からも理解と共感が得られるようなナショナリズム、どんな国にも、一寸の虫にも五分の魂で、みずからの民族と国家を思う気持ちというのはあるわけで、そういう中で近隣の国からも共感と理解が得られるようなナショナリズムでなければいけない。

 といったときに、近隣の国を刺激するようなナショナリズムではなくて、この国において大人が今まともに取り戻さなきゃいけないセンスというのは、開かれたナショナリズムとして、アメリカに対する問題意識こそしっかり取り戻さなければいけない。つまり、ユーラシア外交などという言葉を使おうにも、僕は非常に魅力ある言葉だと思いますけれども、近隣の国がこの国をアメリカ周辺国としてしか位置づけないような状況下で、ユーラシア外交の展開というのは無理だろうというふうに思います。

 我々、戦後五十年の日米同盟、それからさらには、先ほど申し上げたように、戦前の日英同盟というある種の成功体験認識というものをベースに、米国というフィルターでしか世界を見ないという傾向をいつの間にか身につけてしまっている。

 したがって、これは、何も外交安全保障だけじゃないんです。きょうはそれがテーマじゃないから触れませんけれども、経済、産業についての考え方も、アメリカというフィルター、アメリカの価値観においてしか世界のあり方を認識しないという傾向が身につき過ぎちゃっているものだから、ブラインドが起こっています、陰の部分が、見えていない部分が。

 そういう中で、この外交安全保障の議論に戻して、例えば、では、この国のあり方としてどうあるべきなんだということについて私なりの意見を申し上げたいわけですけれども、私は、米国に対して、日米安保の二十一世紀をにらんだ見直しということを堂々と机上にのせていくべきではないか。その際、非常に重要なテーマになってくるのは、先ほども言いかけましたけれども、地位協定の改定、それから段階的な基地の縮小、ドイツがやったように、基地ごとの利用目的というものを厳密に再検討して、段階的に基地を縮小していく。

 例えば、この国には米国の陸軍が二千人駐留しています。アメリカのペンタゴンの中でのいろいろな資料で、御承知の先生は多いと思いますけれども、世に瓶のふたという議論があって、なぜ日本に陸軍兵力の駐留が必要なのかということの説明に際して、日本に軍国主義の復活を許さないために、アジア諸国の期待を担って陸軍兵力を駐留させておくんだというような説明さえなされている部分があります。

 これこそ日本人として大きく傷つけられる部分があるわけで、要するに、日本の軍国主義の復活を許すか許さないかは、独立国であるならば、日本の国民自身が主体的に考え、行動していくべきことであって、例えばそういうことを一つ一つ積み上げたならば、この国における日米安保をベースにしたアメリカの基地のステータスがどういうものになっているかということに気づいていきます。横須賀とか佐世保の基地のステータスは、米国の海軍基地というのは世界じゅうにありますけれども、例外とも言えるほどアメリカが占有権を持っている基地です。それを段階的に見直していく。

 ただ、これはちょっと話が横になりますけれども、お手元に、実は、きょう出た岩波の世界という雑誌に、ついこの間、僕は、アメリカのワシントンへ行って、アジア外交のいろいろな関係者の人と議論してきた結果を踏まえて、アメリカの新外交ドクトリンという論文を書いていますけれども、皮肉なことに、アメリカにとっての在日米軍基地というのは、むしろ重要性を九・一一以降高めちゃったんですね。

 どういう意味かというと、それまでは極東に十万人の前方展開兵力、日本に四万五千人、一千万坪とさっき申し上げたような前方展開兵力を配置しておくことが必要だということについて、例えば北朝鮮の脅威だとか、中国の潜在脅威とかということも含めてそこはかとなく説明がなされていたんですけれども、軍事の専門家であるならば、今サイバー戦争という言葉があるぐらい、衛星でモニターしてトマホークを撃ち込んでいくような戦いの時代において、仮に北朝鮮が南進しても、極端に言えば、ハワイ、グアムの線までアジアに展開している兵力を引っ込めても、一週間で北朝鮮をつぶせるぐらいの軍事力を持っているということについては、アメリカ側は盤石の自信を持っているにもかかわらず、ホスト・ネーション・サポートで七割の駐留経費を負担してくれるような基地、ビューロクラットという立場からいえば、後ろに、ハワイ、グアムまで引いたら、いわゆる縮小しなきゃいけないというんですね。

 そういう意図が働いているものですから、何らかの理由をつけて、極東に展開しておく兵力が十万人必要だということを一生懸命説明していたわけですけれども、皮肉なことに、この九・一一が起こって、アフガン攻撃をやってみて、日本のような占有権を確保している基地がいかに重要かということを思い知ったと思うんです。

 例えば、アフガンを取り巻いている基地、パキスタンの基地にしても、サウジアラビアの基地なんか、結果的には、サウジアラビアのちょっと反米的な動きに対する懸念もあって、アフガン攻撃には利用できなかったんですね。それぐらい気を使いながら、利用目的を限定して、交渉しながら使っていかなきゃいけない、基地を中央アジアなんかにも展開してみたわけですけれども。そうなってくると、一段と日本の基地のステータスのありがたさが身にしみるわけです。

 そういう意味で、特に、例えばイラク攻撃などということを想定してシミュレーションしているのは、本当に大まじめな段階に入っていると思いますけれども、アメリカ側は、インドネシアとかマレーシア、御承知のように、インドネシアは世界最大のモスレム国家という言い方があります。穏健派モスレムの国というふうに我々認識しがちですけれども、最近、シンガポールのリー・クアンユーなんかもその懸念を表明し始めていますけれども、国内に原理主義的な動きあるいは反米的な動きというものが非常に高まっていて、もしイラク攻撃なんということになれば、国内にその種の反米感、あるいは反政府感、あるいは原理主義的な動きというものに火をつけていく可能性があるということが言われ始めています。

 となると、アジアにまで中東の案件が飛び火してくるというか、そういうことを考えた場合には、沖縄を基軸にした日本の基地の重要性はむしろ高まっているという認識が、ペンタゴンの関係者の人たちの一様の発言になってきています。

 したがって、今僕が申し上げているような、基地の縮小なんというとぼけたシナリオが提示できるような時代ではだんだんなくなってきているという部分もあるんですが、私が申し上げたいのは、いかに時間がかかろうが、日本の意思表示として、対米同盟のあるべき姿への見直しということを提起していかなきゃ、たとえ五十年かけても、基地の縮小と地位協定の改定というものを提示していく意思を示さなければ、日米中というトライアングルの構図の中で、日本が存在感を持っていくことは多分できないだろうというふうに思います。

 極論すれば、僕は実は、これは現代の条約改正だと思っています。条約改正というのは、小村寿太郎、陸奥宗光を持ち出すまでもなく、我々の先輩たちは、国家が国家であるためにはどういう要件を整えているべきなのかということを、国際政治学のPhDを取った人ではないけれども、本能的に知っていたということですね。今、我々は、何やら戦後五十年の中でぼやけてきちゃって、先ほど申し上げたような常識さえ薄らいじゃって、何をすべきかということさえぼけてきちゃっている。

 僕は、誤解していただきたくないのは、日米安保を解消しろなんて言っているんじゃないんです。日米の軍事協力関係のアジアにおけるあり方を見直すべきだと言っているわけです。特に、専守防衛を基軸にして、さっき申し上げたような先端的な情報技術革新の中で戦争というもののステージがまるで変わっている状況下で、日米の軍事協力はどういうことに重点を置いたものであるべきかということをしっかり見直す。

 それから同時に、もう一つ強調しておきたいのは、多国間のフォーラムといいますか、これは予防外交というようなキーワードでも成り立つと思うんです。多国間フォーラムというのはどういうことかというと、アメリカのアジア外交の特色というのは、ディバイド・アンド・ルールという言葉があります。分断統治というものですね。二国間関係に断ち切っておくという考え方です。

 つまり、これは日米財界人会議なんかでも必ず蒸し返されてくる議論ですけれども、アジアにおいて多国間のフォーラムをつくるということに対して物すごく警戒的です。欧州においては、御承知のようにNATOのような多国間のスキームがあるわけですけれども、アメリカは、アジアについていえば、一貫して、日米、米韓それから米中、米フィリピンという二国間の関係はあるけれども、多国間の外交安全保障上のフォーラムをつくることについて非常に慎重かつ警戒的な展開を示してきています。それをディバイド・アンド・ルールと言うんですね。

 ところが、御承知のように、中国まで参加している多国間のフォーラムというのはAPECだけなんですね。しかし、これは安全保障とは何も関係ないわけです。

 これから日本は、特に東アジアに関して、ロシアとか中国だとか、韓国、北朝鮮をも含む多国間の、NATOのような仕組みはもちろんできないと思いますけれども、これは中谷防衛庁長官なんかも言われ始めているようですけれども、できるだけ情報の密度を濃く交流するようなフォーラムからスタートしていって、意思疎通を密にして、誤解とかあるいは突発的な出来事が起こらないように制御していくような予防外交的な布陣というものが必要になってくると思うのです。これは決してアメリカを排除するような構想ではなくて、アメリカをも巻き込みながら動き始めていく必要があるだろうというふうに思います。

 その他、時間が参りましたので、あと御質問の中で、アメリカの新外交ドクトリンに対する日本のスタンスだとか有事法制等に対する考え方は補足したいと思います。

 どうもありがとうございました。(拍手)

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