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城西大学経済学部教授 畑尻剛 氏 

2001年11月29日第153回国会 衆議院憲法調査会議録抜粋


議録抜粋

○中山会長

 休憩前に引き続き会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として城西大学経済学部教授畑尻剛君に御出席をいただき、人権保障に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、畑尻参考人、お願いいたします。

○畑尻参考人

 ただいま御紹介いただきました城西大学の畑尻と申します。

 本日、私の報告のテーマといたしましては、人権の迅速かつ適切な保障のために、憲法裁判所という制度を我が国でも導入すべきかどうかということ、これが最も大きなテーマではないかと思われます。そのテーマに即してお話をさせていただきたいと思います。

 先に結論部分をお話しした方が以下の議論が明確になると思われますので、申しわけございませんけれども、レジュメの最終ページ、十二ページの「結語」というところをごらんいただきたいと思います。

 私のきょうの報告の結論部分を先に申しますと、簡単に申しますと、憲法改正ではなくて、裁判所法を改正することによって、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法裁判を専門に扱う専門裁判所としての最高裁判所を設けるということでございます。そして、その裁判所にどういう手続を割り当てるかといいますと、これは後で具体的にお話ししますけれども、ドイツで採用されております具体的規範統制という、そのような手続をただいま申しました憲法裁判を専門に行う最高裁判所に権限として与える。これが私の本日の結論部分になると思います。

 以下、もう一度レジュメの一ページから少し具体的にただいまの主張をお話ししていきたいと思います。
 なお、若干レジュメの量が多くなりましたのは、憲法裁判所というものをつくる、つくらないという問題については、さまざまな意見がございます。したがって、そのさまざまな意見をやはり集約する形で検討することが望ましいと思われましたので、ここにさまざまな意見をそのままの形で載せさせていただきました。したがって、レジュメとしてはちょっと例外的に量が多くなったと思いますけれども、そのような趣旨であることを御了解いただきたいと思います。

 さて、順番に従ってお話をさせていただきます。
 まず、「問題の所在」ということですけれども、従来から、憲法学界にあっては、最高裁判所を頂点とする裁判所の違憲立法審査権の行使について、非常に消極的であるという意見が非常に多く出されておりました。あるいは、それを違憲審査の閉塞状況というふうな言葉であらわす研究者もおりました。

 端的に申しまして、最高裁判所が現在まで法令違憲審査で当該法令を違憲とした件数は、これは若干数え方によっても違うんですけれども、明白な形では四件あるいは五件と言われております。具体的に言うと、昭和四十八年の尊属殺重罰規定違憲判決、五十一年の衆議院議員定数不均衡判決、一年前の薬事法の距離制限違憲判決、そして六十二年、森林法共有違憲判決、この四つが一般的に指摘されておりますし、数え方によっては昭和三十七年の第三者没収の判決をそれに挙げる方もいらっしゃいます。四つあるいは五つというのが憲法学説では一般的に紹介されている判例になります。

 この五つあるいは四つという数を多いのか少ないのか、これはいろいろな評価が分かれるところですけれども、いずれにせよ、他の憲法裁判所の国々、あるいは他の司法裁判所で日本と同じような形で違憲立法審査権を行使している国々と対比しても、決してこの数は多いというふうには言えない。あるいはむしろ、先ほど言いましたように、非常に消極的であるという評価が一般的なようであります。

 さて、そのような評価がしばらく行われておりましたけれども、一九九〇年代に入りますと、政治の枠組みの大きな変動に伴って、最高裁判所が従来の消極的な態度から積極的な態度に移行するのではないかという期待がかなり高まった時期がございます。

 実際に判例をちょっとひもといてみますと、平成八年の神戸高専の剣道受講拒否事件であるとか、次の年の愛媛の玉ぐし料訴訟であるとか、この二つの判例に代表されるように、最高裁判所自身が少数者の人権に配慮した上での憲法判断を行うというかなり積極的な姿勢も見られないことはないと思われます。

 しかし、今の二つの判例以外の、総体として考えますと、一九九〇年以降も、大きな政治の変動はあったとしても、積極的な憲法判断に踏み込んだ流れが最高裁判所に定着している、あるいはその萌芽が見られるかというと、必ずしもそれも肯定的に答えることはできないように思われます。

 それの最も典型的といいますか象徴的な例が昨年の平成十二年九月六日に下されました参議院の議員定数不均衡事件の判決でございます。ここでは詳しいその内容は御承知だと思われますので省きますけれども、参議院の選挙について、最大格差一対四・九八というこの格差が憲法十四条の法のもとの平等に反するのではないかというふうな形で争われたわけでありますが、御承知のように、参議院の議員定数不均衡事件について、最高裁判所は十対五という形で合憲判決を下しております。五人の裁判官が反対意見を述べまして、一対約五という格差は参議院であったとしても違憲であるというふうに述べておりますけれども、特にその中で注目されるのは、福田博判事の追加反対意見でございます。

 そこに最後の結論部分だけを載せておきましたけれども、簡単に申しますと、多数意見が立法府の広い裁量論を展開して合憲判決を導き出したのに対して、反対意見は、そのような広い裁量論で国会に広く裁量の余地を認めることはできないんだ、むしろ、この問題については積極的に最高裁判所がはっきりと違憲状態である、あるいは違憲であるということを明言すべきであるというふうな立場から書かれたものでございまして、その最後に、福田裁判官はこのような意見を述べて判決の追加意見をくくっております。

 アンダーラインの部分だけ読みますけれども、「我が国憲法の定める三権分立構造の中で、司法の独立を堅持し、民主主義の基盤を成す司法の権威、ひいては法の支配を維持、確保するには、最高裁判所は、憲法により与えられた違憲立法審査機関としての責任をも十分に果たしていかなければならない。司法がその地位に安住して違憲立法審査権を適切に行使しないことは、もはや許されないのである。」こういう形でかなり強い調子で消極的な最高裁判所の多数意見を批判しております。

 もちろん、この判決自体についてはさまざまな意見があるとしても、現職の最高裁判所の判事が、少数意見の中で、消極的な態度はもはや許されないんだというふうな形で判決文を書いているということは、やはり我々としても注目せざるを得ないように思われます。

 したがって、1を簡単にまとめますと、最高裁判所の違憲立法審査権の現状は、期待とは裏腹に、かなり消極的な姿勢に終始しているのではないかということになると思います。

 さて、そのような最高裁判所の消極的な姿勢、これはいろいろな評価の可能性はあるとしても、やはり先ほど述べました、人権の迅速かつ適切な保障のためには、これを活性化する必要は多くの人々の認識になっていると思われます。

 さて、そのような問題状況に対してどのような処方せんが可能であるかと申しますと、一応選択肢としては三つの可能性が考えられるように思われます。

 一つは、現行制度の運用自体を再検討する、つまり、現行制度をそのままに、その運用を再検討するというやり方が一つのやり方だと思われます。

 これについては、最高裁判所の判事をおやりになっていました大野元裁判官が、その著書の中で幾つか現行制度の運用の再検討について述べておられます。簡単に言いますと、大法廷の積極的な運用であるとか、あるいは改正民訴法の上訴制限をより合理的に活用することであるとか、あるいは最高裁判所の裁判官の構成を、裁判官、弁護士、学識経験者という五対五対五という当初の比例に戻すべきであるとか、そのような幾つかの提言が著書の中に見られます。これは簡単に申しますと、現行制度をそのままに、その運用をもう一度考え直そうではないかという考え方だと思われます。

 さて、それ以外に、現行制度の運用だけでは限界がある、したがって、やはり現行制度自体を改革すべきであるというふうに考えるといたしましても、選択肢としては、法律のレベルでこれを改革するということと、憲法裁判所というものを憲法改正して設置するという、この二つの選択肢があろうと思われます。

 今申しました三番目の憲法裁判所を憲法改正によって設置するという考え方については、後で少し触れますけれども、一九九四年の読売新聞の憲法改正試案がそのような形の提言を行っております。
 本報告の態度といいますか基本的な方針なんですけれども、本報告では、やはり現行の制度の運用を見直すというだけでは必ずしもうまく解決しないのではないかという認識の上で、かといって直ちに憲法改正によって憲法裁判所を設けるということにもさまざまな難点がある。したがって、まず法律改正のレベルで憲法裁判所的な手続や制度を導入することができないかどうか、これをまず探っていこうではないか。ただ、そういうふうな提言といいますか方向性で、もしそれがうまくいかない場合、あるいは憲法解釈上問題があれば、それはもちろん憲法改正も含めた広い視点から考えなければいけない。もちろんそのことは、制度改革自体、現行の制度運用自体を否定するものではなくて、同時並行的に運用の改善も行っていきながら、同時に新たな制度提言というのも行っていく。そのことによって、逆に言えば運用の問題点も明らかになるように思われます。

 したがって、以下の議論では、この二番目の選択肢を中心に考えていこうと思っております。

 さて、レジュメの二ページになりますが、先ほどちょっと申しましたけれども、一九九四年に読売新聞が憲法改正試案というものを発表いたしました。内容については既に御承知だと思われますけれども、その中で、憲法裁判所というものを設置するということが大きく主張されておりました。

 レジュメの二ページの1のところに簡単なその説明がありますけれども、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法裁判を専門に行う裁判所として、新たに憲法裁判所を憲法改正によって設置する、裁判官は長官を含めて九名で、その選出母体は参議院になる、そして憲法裁判所には、後でこれも詳しく述べますけれども、いわゆる抽象的規範審査と具体的規範審査、そして憲法異議というものを権限として与える、これが読売憲法試案の骨子でございます。

 この読売憲法試案は、その一年前に出されました元最高裁判所判事の伊藤正己先生による「裁判官と学者の間」という本、この提言がかなり大きな影響を与えているように思われます。これも後で言及したいと思うんですけれども、この「裁判官と学者の間」という本は、伊藤正己先生が、最高裁判所の判事としての経験の中で、やはり現行の司法裁判所による憲法裁判には限界があるんだということをはっきりと主張されて、かなり学界でも議論になった著書でございます。

 私は、ここで、この読売憲法試案の是非というか当否をお話しするのではなくて、その読売憲法試案が出されたことによって学界に大きな憲法裁判所論が沸き起こりました。もちろん、そこには積極論もございましたし、逆に消極論もございました。その読売憲法試案や伊藤正己先生の御著書によって提起された、いわゆる憲法裁判所積極論、消極論、この両者の論拠を少し詳しく見ていくことによって、これから検討しようとする制度がいかにあるべきか、その内容の一つの指針になるのではないかと思われました。そこで、三ページ以下、詳しくこの議論を御紹介したわけであります。

 三ページをごらんいただきたいのですけれども、最初にお断り申し上げなければいけないのは、この積極論、消極論、でも、憲法学界では消極論が数からいうと多数を占めるということは言えると思います。ただ、積極論を展開されている研究者の中にはかなり有力な研究者もありますので、数からいうと消極論が圧倒的であるけれども、かといって、積極論がその説得性といいますか、そういうものがないということでは必ずしもございません。

 以下、具体的にもう少し検討していきたいわけですけれども、ここでは、一応積極論を先に述べて、それに対して、同じ論点について消極論はどう答えているのかという形で議論をまとめてみました。
 まず、根本的な認識として、積極論は、もちろん現在の閉塞状況を打破するためには制度自体の改革が不可欠なんだ、そういう認識に立っております。それに対して消極論の方は、憲法裁判所さえ導入すれば違憲立法審査権が活性できるというのは、これは少し議論としては安易ではないか、導入すべき制度については、それぞれの歴史的な背景であるとかあるいは政治、社会状況等があるのではないか、それを抜きにして、制度がいいからといってそのまま導入するというのは、これは必ずしも妥当なやり方ではないというふうな批判がございます。

 そういう基本的な認識の違いは、以下の2)からの個別的な論点にも反映されておりまして、例えば2)の論点というのは、要するに、現行法では非常に時間がかかるということであります。

 非常に象徴的な事件を一つだけ簡単に御説明しますと、いわゆる、憲法二十五条の生存権が争われた朝日訴訟というものがございます。これは提訴をされたのが一九五七年、昭和三十二年ですが、地裁、高裁、最高裁判所と上がってきまして、最高裁判所の判決が下ったのが実に昭和四十二年という、十年の年月がかかっております。

 この最高裁判所の判決が出る前に、原告である朝日茂さんは既に死亡しておりまして、結局、最高裁判所としては、この事件自体は、生活保護請求権は継承できないということで切っております。ただ、憲法判断、つまり憲法二十五条の健康で文化的な最低限度の生活水準が果たして当時の具体的な受給額に合致しているのかどうかについて、補足という形で若干述べられているにとどまっているわけです。

 このように、憲法裁判というのは非常に時間がかかる、一審、二審、そして最高裁判所という形の通常の手続をとりますと非常に時間がかかる、したがって憲法の迅速かつ適切な解決を阻むのではないかというふうな指摘が積極論からなされております。それに対して消極論からは、確かに迅速な判断は望ましいとしても、迅速な合憲判断が乱発されることによってむしろ憲法議論が消極的になってしまうのではないか、そういうふうな反対論もございます。

 ただ、いずれにせよ、現在、さまざまな問題が国会でも社会でも議論になっておりますけれども、例えばクローン研究の問題あるいは体外受精の問題等々をとらえてみた場合にも、この問題が裁判所に行った場合に十年間かけて一つの判断が出るということでは、かなりその判断の妥当性自体も疑われてしまうということは言えると思います。

 さて、その裁判の長期化というのは、単に迅速な解決を阻むということだけではございませんで、三ページの下から四ページにかけて書いてございますように、実際に、現状の最高裁判所が違憲立法審査権の行使について消極的である、その消極性の原因にもなっているのであるということ、あるいは下級裁判所自身も、結局、裁判が長期にわたるということは予想されますので、無用な負担をかけないで、要するに法律レベルで解決をすれば、むしろ憲法判断というところに立ち入らないという考え方が下級裁判所にも広く浸透しているのではないかということも指摘されるわけです。

 簡単に申しますと、裁判の長期化は、人権の迅速な解決を阻むというだけではなくて、現在の消極的な違憲立法審査権の行使の要因にもなっているということ、これが指摘されるわけであります。それに対しては、もちろん、五ページの反対論もございます。したがって、その反対論というものもしっかり視野に入れた上でこの議論を展開しなければいけないということは、そのとおりではないかと思います。

 さて、先ほどちょっと御紹介いたしました伊藤正己教授、元判事の著書、あるいは同じく最高裁判所をおやめになった後で大野元判事がお書きになった著書、それに見られるのが五ページの下、5)の議論でございます。

 簡単に申しますと、いわゆる上告裁判所としての裁判所の裁判官に求められる現実処理能力といいますか法的な思考と、憲法裁判所の憲法裁判官として求められる能力といいますか資質はやはり違うんだ。ですから、現在の年間上告件数が三千七百件余りの最高裁判所に対して、そもそも積極的な判断を求めること自体がかなり制度的にも無理があるんだ、したがって、積極的な判断をするためには、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法問題を専門に扱う裁判所がどうしても必要なのではないかということ、それが五番目の主張としてなされております。

 以下、六ページの主張は、それに対する反論ということもありますけれども、また、それ以外の、憲法裁判所制度についての根本的な疑念というのがあります。

 ここで簡単に申しますと、六ページの二番目の矢印の議論なんですけれども、要するに、憲法裁判所による積極的な憲法判断というものが、むしろ政治の司法化あるいは政治の裁判化というものを生むことになる、それが結局、議会制民主主義を弱体化させるということでございます。

 つまり、政治が本来持っていたダイナミズムが失われて、常に憲法裁判所での憲法判断というものを念頭に置いた形で議会の議論が進んでしまうということ、これは議会制民主主義にとっても望ましい姿ではないのではないか、そのような批判がやはりございます。

 さて、簡単ではありますけれども、今さっと幾つか積極論、消極論を見てきたわけでございますけれども、私のあるいは報告者の立場は、七ページにも書いておきましたけれども、これら積極論、消極論というものをよく検討しますと、積極論も消極論も、その重点やニュアンスの置き方に違いがあったとしても、両者を必ずしも一刀両断的に否定することはできないわけです。しかも、憲法裁判所制度というものを構築するためには、かなり幅の広いコンセンサスというものが、それが実際にうまく活用される、あるいはうまく機能するためには不可欠であろうと思われます。したがって、その点でも、この積極論、消極論両者の議論というものを踏まえた上で、できるだけ両者の論拠を受け取って、最もその両者の主張に適合的な制度とは何かということを考えていくことが必要なのではないかというように思われます。

 したがって、簡単にまとめますと、憲法裁判所の導入というものを考えるとしても、七ページに七つほど挙げておきましたけれども、このような観点を抜きにして具体的な議論をすることはできない。あるいは、逆に言えば、このような七つの従来出ておりました主張を踏まえた形で、これに最も適合的な制度とは何かということを模索する方がいいのではないかというように思われます。

 簡単に申しますと、安易な制度論になることのないように、まず憲法裁判所制度ありきということではなくて、現状を改善するためにはどのような制度やどのような権限、あるいはどのような手続が有効なのかということを個別具体的に考える。あるいは、迅速な憲法判断は確かに必要だけれども、迅速な合憲判断によって、一件落着的な憲法議論の封じ込めは避けなければならない。裁判の長期化に伴うさまざまな弊害、これは先ほど簡単に御報告いたしましたけれども、ぜひこの点は除去しなければならないであろう。

 あるいは、下級裁判所裁判官の人権感覚にすぐれた判断といいますか意見も十分尊重し、酌むことはできないかどうか。あるいは、事件裁判官としての職業裁判官の能力と憲法的な見地から行う憲法裁判所裁判官の両方のよい面を生かすすべはないか。あるいは、先ほどちょっと述べましたけれども、司法の政治化という危険が指摘されておりますけれども、それに十分対処できるような制度はないか。

 あるいは、そもそも憲法裁判所というものはもろ刃の剣である。確かに、現状を打破するための特効薬ということもありますけれども、同時にそれはかなり大きな副作用も生むのであるというふうな根本的な疑念が憲法裁判所にはどうしてもつきまといます。したがって、そのような根本的な疑念にもこたえつつ制度構築をしていく必要があるのではないか。

 以上述べました七つの点を考えながら、具体的な制度について考えていきたいと思います。

 さて、七ページから八ページにかけて、現状のドイツの連邦憲法裁判所を原型とするさまざまな憲法裁判所の制度についての紹介をしております。これも、簡単にまとめますと、現在多くの国で採用されております憲法裁判所制度というものの原型をドイツの連邦憲法裁判所制度に置くことが最も妥当であると思われますので、その中で、中心的な手続である三つの手続を簡単に御説明したいと思います。それが八ページの三つの手続でございます。

 一つは、抽象的規範統制と呼ばれるもので、これは、先ほどの読売憲法試案にも出ておりましたけれども、政府や議会の議員のある一定数の申し立てに基づいて、具体的な紛争が生じる以前に、簡単に言いますと、その法律が公布される段階で憲法裁判所にその法律の憲法適合性の審査を求める、そういうふうな制度であります。憲法裁判所の中で最も憲法裁判所的な制度、あるいは憲法の番人という性格が最も出ている制度だと言われております。

 次が、具体的規範統制という制度ですけれども、これは提訴権者は裁判所ということになります。通常の裁判所の裁判官が、適用法令について違憲であるというふうな確信を抱いた場合には、その違憲であるという意見を憲法裁判所に移送するということになります。

 ただ、若干注意しなければならないのですけれども、憲法問題を下級裁判所の裁判官が丸投げするというわけではございませんで、あくまで下級裁判所の裁判官は、法律が憲法に違反するという形の結論を出します。つまり、違憲立法審査権を行使するわけです。それを踏まえて、下級裁判所の違憲立法審査権の行使の結果としての移送決定が果たして妥当であるかどうかということを憲法裁判所が判断する、これがいわゆる具体的規範統制でございます。

 もう一つが、憲法異議という制度がございます。
 これは、連邦憲法裁判所の制度の中で最も活用されている。実際の申し立て件数の、現在まで十二万件の中の約九六%がこの憲法異議手続になります。これは、一般市民が提訴権者となりまして、国家行為、もちろん法律もそうですし、行政行為あるいは裁判所の判決が憲法に違反する、憲法のみずからに認められた人権を制限するものであると考えるときには、それを憲法裁判所に持っていくという制度がこれであります。

 ただし、これは、括弧にも書きましたけれども、通常の裁判所の救済をすべて尽くしているということが前提になりますので、まずもって憲法裁判所に持っていくということではございません。

 このような三つの主要な手続を持つ連邦憲法裁判所が原型となりまして、その後、世界にこの制度が広がっております。主要な国の制度を以下に掲げておきましたけれども、簡単に申しますと、憲法裁判所制度をとる国々はたくさんございますが、国によってこの三つの制度のさまざまな組み合わせ、バリエーションというものがありまして、この連邦憲法裁判所の三つの制度を三つともそのままの形で採用しているという国はむしろ少ないように思われます。細かい説明は省きますけれども、さまざまの形でそれが自国の政治状況や文化状況に合わせて採用されているというのが現状のようであります。

 さて、その憲法裁判所の手続を実際に運用する憲法裁判官ですけれども、憲法裁判官についてもさまざまな理念像がございまして、簡単に言いますと、憲法判断と法的判断、あるいは法的判断と政治的な判断を、どちらを優先させるかということでも、国によってさまざまな考え方の違いがあります。

 そのことは同時に、手続の違いにもあらわれておりまして、一つは、憲法裁判所を構成する裁判官一人一人が非党派的な性格を持つ者でなければならないと考える考え方と、そうではないのだ、一人一人は政治的であったとしても、裁判所全体として超党派的であればそれでいいのだ、そういうふうな考え方もあります。現在のドイツの憲法裁判所の選出や理念像はむしろ超党派的な構成を目指しているようでありますけれども、それについてはもちろん反論もございます。

 さて、現在の各国の状況を簡単に見てきたわけですけれども、そのようなことを踏まえて、あるいは先ほどの要請を踏まえて、現行の日本でどのような制度や手続を導入すべきかということになりますと、九ページからその議論になるわけです。

 簡単に申しますと、憲法解釈上の難点というのが従来指摘されておりましたけれども、現在では、司法権概念の検討が進むことによって、従来のように、憲法七十六条一項の司法権、それを踏まえた八十一条の違憲立法審査権では、憲法裁判所制度は一切導入できないんだというふうに考える考え方はむしろ少なくなってきているように思われます。

 もちろん、そうはいっても全く憲法上フリーハンドというわけではないんですけれども、憲法上さまざまな議論はあるにせよ、全く現行憲法上憲法裁判所的な手続を導入できないのかというと、そうではないというのがある程度現在では一般的といいますか、かなりそういう主張がなされるようになってきているように思われます。

 十ページをごらんいただきたいんですけれども、さて、そういうふうな前提のもとで、どういう手続をどのような形で導入すべきかという議論になりますと、そこにもさまざまな選択肢が可能であろうと思われます。

 結論部分だけ簡単に申しますと、上告裁判所としての最高裁判所とは別の、主要問題として憲法問題を扱う独立した裁判所あるいは独立した部を設けるという提案がなされておりますし、これは賛同できるのではないかと思われます。

 組織としての専門の憲法裁判所というものにどのような裁判官を張りつけるかということについても、先ほどのような憲法裁判所裁判官の理念像をどう見るかによって、さまざまな選択肢があろうと思われます。それが十ページの(2)のところで、主な考えるべき論点について指摘をしておきました。

 時間がございませんので、最後に簡単にお話をいたしますと、さて、そのような専門の裁判所あるいは専門の部というものにどのような権限を張りつけるかということになりますと、私の結論的なお話ですと、そこにはやはり、まず具体的規範統制というものを張りつけるべきであろうと考えられます。

 抽象的規範統制については、これも簡単に述べますと、やはり政治の司法化という懸念が十分に払拭できないという問題がありますし、憲法異議手続については、これはかなり魅力的な手続ではあるのですけれども、先ほど言いました、九六%を占める申し立てが行われているということ、それによって過重負担という問題が常に連邦憲法裁判所にはつきまとっているということ、あるいはもう一つは、判決に対する憲法異議が圧倒的多数であるのですけれども、その判決に対する憲法異議が、要するに、一般の裁判所の判決の再チェック、いわゆる第四審的な働きをしているということ、憲法裁判権と一般裁判権のいわば垣根というものがあいまいになってしまう、そういうおそれがドイツでも指摘されているということを考えますと、まずもって導入すべきは具体的規範統制ではないかと思われます。

 その具体的規範統制が現行憲法上導入できるかどうかという議論を十一ページの3)でしております。時間がございませんので、これは読んでいただければと思います。

 最後に、これを導入した場合の実際上の論点について、十一ページの終わりから十二ページの初めにかけて書いておきました。

 これもかなり長い文章になるわけですけれども、簡単に言いますと、この具体的規範統制というものによって、先ほど言いましたような憲法裁判所積極論、消極論のそれぞれの論拠について、ある程度までそれぞれの主張を酌み取ることができる制度として最もすぐれている、あるいは、現実妥当性や実現可能性からいっても最もすぐれているのではないかということで、まず検討すべきはこの手続ではないかと思われます。

 もちろん、その検討は他の手続を否定することでも排除することでもなくて、まず検討の道筋として、あるいは検討のたたき台としてそのようなことを考え、それで不十分であれば他の手続もという形で一つ一つ、最初の議論に戻りますけれども、まず憲法裁判所ありきということではなくて、現状の閉塞状況を打破し、人権の迅速かつ適切な保障のためにどのような手続、制度が可能なのであるかという具体的な検討をしていくということがやはり求められるのではないかと思います。

 若干時間をオーバーいたしましたけれども、以上をもって報告とさせていただきます。(拍手)

○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

以上